**このメルマガの一部は、平成23年、新会長から会員に配信されたものに加筆修正して、掲載しています。

 

 

 

《新生・囃子保存会の歴史》

 

 

(新生1期生のころ)

 

新しい仲間も増えたので、僕の主観も混じりますが、これまでの経緯をお伝えしようと思います

 

僕なんかはお囃子新生一期生なのですが、それは多分15年くらい前の入会なんじゃないかな

 

僕は22歳のころ中和田に来ましてね

 

家を建ててくれたのが中川のんちゃんの親父さんとか伯父さんとかだったご縁で、来た当初から元旦には長嶋神社に参詣していた記憶なんです

 

それで今から15年くらい前、お祭りの世話人が我が家に当たって神社にいたところ、のんちゃんの親父さんに「まあちょっと来いよ、まあ飲めよ」と囃子の屋台に連れ込まれて、入会になっちゃったんです

 

あとから知った話では、なんでも、昔は神社に囃子があったのが、なにかの事情で途絶えて、それを復活させるとのことだったんだね

 

そんな意味で新生一期なんです

 

新生一期生は、のんちゃん、大内くん、新井さんもそうだと云うからそうなんかね

 

一方、旧来からのメンバーとしては、利一さん、柿島さんたちがいて、毎週土曜日に本殿で太鼓を教えてもらいました

 

当時、中和田には笛がいなくて、笛は先日亡くなった谷口のサッちゃんとか、五十嵐正作さんが来てくれてましたね

 

いまの稽古との違いは、笛なしで、唄を口ずさみながら、ゴザをまいた角材を叩いていたことですね

 

それが一通り出来てから笛に合わせて太鼓を叩かせてもらった記憶です

 

初めて太鼓叩いたときはビビりまくりだったのを今でも覚えています

 

初めて太鼓を叩いたころは、高橋さんが絡みでした

 

高橋さんは昨年かな、一応退会されたけど、いまでも時々練習に顔を見せてくれますね

 

高橋さんは当時スゲー怖くて太鼓で絡まれているときはヒヤヒヤものでしたが、僕の絡みは高橋さんのまね事から始まりました

 

あのころから小山さんもいた。

 

小山さんって、最近ちょいとご無沙汰だけど、いっつも、工場のつなぎの上に半纏まとってたよね

 

だみ声でさ、でも、すごく優しいひとなんだよ 

 

 

(増える仲間達)

 

さて、それで、そのあと阿部ちゃん、矢野間さん、野口さんの順でしたか?、もうそれでも十年なるかなあ、入会してくれました

 

阿部ちゃんは元々中和田の人で確か鶴園小学校一期生だとか違ったか

 

子供繋がりでどっかに遊びに行ったとき、是非やりたいてな話だったんで入ってもらったんだね

 

矢野ちゃんは阿部ちゃんが誘ったのかな

 

矢野ちゃんは群馬出身であちらでお祭りをしていたので、お祭りのこともよく知ってるよね

 

野口さんは新井さんが誘ったのかしらね

 

野口さんは尺八をしていて、祭の笛もなんなくこなしてくれました

 

ぼくの記憶では野口さんは確か正月入会でしたかしら

 

いまでは考えられない姿ですが(^w^)入会当初は焼鳥焼いたり雑巾がけしてたよな~

 

このころから中和田の囃子に矢野間・野口の笛が入り、華やかさが増して来たんでしたね

 

*本人情報によると、矢野間さんは野口さんのずっと後なんだって。失敬!!

 

 

(こども囃子の結成など)

 

さて話を戻しまして、子供囃子はだいたいこのようなメンバーのなかで始まりました

 

最初は自分ちの舎弟を取り込んで、いまの1組の連中ですね

 

阿部信太郎、中川あやの、矢野間心咲、濱田虎太郎ですね

 

1組結成は五年くらい前かな

 

ともかく覚えは早かったね

 

これは多分、親がやるから自宅での自主練があったのもあると思うんだ

 

そして子供達は気づくと大きくなってきていて、恥ずかしくなったり、塾やら部活やら色々あるんでしょう、だいたい中学辺りで云うことを段々きかなくなるのですよ

 

で、これは下から補充しないと子供が途絶えるということで、2次募集をしました

 

これは新井会長時代、二年前かな

 

自治会のお知らせかなんかに募集広告出してやりました

 

それが2組ですね

 

牛田あいり、池上凜、土門ひな、松田浩平、近藤諒太郎、金子亮生たちです

 

そして諒太郎の練習に毎回くっついてきていたお父さんの近ちゃんを引き入れ、引っ込み思案のゴンス(亮生の父)を引き出し、この二人が確か3組なんだよね

 

近ちゃんはきっと入ってくれるなと僕は最初から確信していたのね

 

ゴンス、ゴンスは金子の中国読みだとかそうでないとか諸説あるのですが、ゴンスは恥ずかしがり屋だとゴンスの奥さんから聞いていて、来てくれるか心配だったんだけど来てくれてよかった

 

ゴンスは知らない間に絡みを始め、ツケの近ちゃんとペアだったんだけど、最近は仕事でゴンスがいない隙に近ちゃんが絡みを始めて楽しいコンビですね

 

斎藤くんは、確か近ちゃんゴンスよりは先ではなかったかな

 

神社の世話人でお祭りに顔を見せていたんだね

 

おじさんおばさんばかりの世話人のなかに若いのいるじゃん、てんでズルズルと屋台に引き入れたんだな

 

ただ世話人が忙しくて、結婚も忙しくて、最近ようやく落ち着いてきたね

 

あと、大貫さんがいます

 

大貫さんはいま幾つかなあ還暦は過ぎてるよね新井さんと同級生かしらね

 

新生1期かそのあとか僕なんかは「兄貴」と呼んでいて、いろいろ相談(文句?)

 

たまに道で会うと少し快復した感じがするんだが、またお祭りに顔を見せて欲しいな

 

そろそろメンバー来歴も終盤

 

石原三兄弟(翔馬、広夢、龍我)と、伸也んとこの寿(ひさし)だわね

 

この子らは、松田浩平の同級生繋がりだと思うんだけど、浩平と同級生は広夢かな?

 

募集はかけてなかったんだけど、浩平が連れてきた?感じかね

 

浩平ママにも色々調整お願いして、無事入会

 

三兄弟、見てるとおもしろいよ~

 

最近ようやく名前が識別できるようになったけど、よく似てるのね

 

寿は、小6にしてドラムやってるんだって  

 

みんな、まだ入ってまもなくぎこちないけど、期待だね

 

石原かっちゃんは、最初から入るつもりで、伸也は毒入り酒を飲みたがってたから飲ませたら入ってくれた(楽!)

 

ふたりとも、練習も(飲みも(^o^))熱心だよね~

 

また新しい仲間が増えてよかった

 

 

 

 

《囃子のしきたり》

 

 

 

(太鼓は神社のもの)

 

簡単なところからはじめると、太鼓

 

これは神社のものということになっているのね

 

いまシメ太鼓が2セットあるけど、胴の薄い方は、五年くらい前かな、革を張替えたから綺麗だけど、あれは古い

 

新生前からずーっとある

 

胴の太い方は、これも五年位前かな、当時の総代長の寄進ものです

 

太鼓が神社のものというのは、多分「神社の囃子連」ていう流れでそうなったんだろうと思われる

 

囃子で太鼓を持つと、囃子が神社から離れちゃうとか、叩きたかったら神社に来なみたいな裏の意味もあったんだろうかね?

 

歴史はともかく、囃子で太鼓を持ってはいけない理由はいまやないとは思うけど、実際問題、太鼓はめちゃくちゃ高くて貧乏囃子連では絶対買えないけど

 

で、そういうしきたりがあるので、囃子が神社の外に太鼓を持ち出してよいのかとのあの話になるわけです

 

そういうわけで、神社の外に太鼓を持ち出すときは、神社にお断りすることがマナーとなっています。

 

 

(半纏)

 

いまの辛子色の半纏を誂えたのは柿島さんが会長のころ、いまから五年六年前かな

 

半纏そのものは吊しの既製品なんだけど、背中や襟に文字を入れる「型」はオーダー品で、型の保存期間は三年、つまり同じ型で作り増しするなら三年以内とゆうスグレモノです

 

相模原上溝のお祭り屋さんで調達しています

 

ところで、いま皆が来ている半纏は、会のお金で誂えたもので、だから貸与ということになっています

 

貸与とはつまり、もし万一退会するなら返せということであり、また、囃子が着るときに着るのであって、勝手に着てあるいてはいけないということになります

 

われわれの象徴だからね。

 

 

(会員条件??)

 

酒癖悪く、

練習しない

は、ダメです。いまの皆さんは大丈夫ですね? 皆で仲良くね!!

 

 

(囃子はみんなでやるもの)

 

としちゃんの言葉

 

としちゃん何かあるといつもいうよ

 

「みんなよぉ

 

よくできたよくできた

 

これからもよぉ

 

しっかりやってくれよ

 

囃子はよ

 

独りじゃできねぇんだよ

 

誰が上手とか上手じゃねぇとかじゃなく

 

みなさんで協力してよぉ

 

なぁ

 

いい話だよね

 

前々会長の柿さんも、前会長の新井さんも、おんなじこというよね

 

練習は一生懸命しよう

 

でも、誰が上手とか上手じゃねえとかの話はしない

 

所詮、遊びなんだから みんなで楽しもうよ そんななかでみんなが上手になる

 

極めようとすると ついつい一生懸命になっちゃって言葉もきつくなることもあるけどさ、そんなとき「あっ、いけね~」と思って。

 

囃子のなかに 先輩も後輩もありません

 

みんな「遊び仲間」ですね

 

たのしく、仲良くやろう それが一番大切な「しきたり」です

 

 

《地域の歴史》

 

 

(東林間神社)

 

谷口・東林間・上矢部のはなしを

 

これはジモティ阿部ちゃん、のんちゃんやらが詳しいかね

 

なんかですね、昔々はいまの東林間は中和田だったとか

 

だから東林間も古木さんとか多いのかね

 

そんなこんなで東林間の神社は中和田の神社と古くから交流があり、当会のトシチャンが若きころ、東林間に囃子を教えたらしいのね

 

多分戦後の話だよねぇ

 

トシチャンは昭和七年生まれだから終戦で13歳だからなあ戦後だな戦後

 

そのころの中和田て畑と林かね

 

東林間は名前のとおり林でしょう多分

 

知ってる?そのころ小田急線はあったんだよ

 

相模大野は通信学校前という駅でした

 

いまの伊勢丹やロビーシティはもと米軍病院

 

あれはいつ返還だったかね、昭和53年はまだ米軍いたね

 

そんでその前、戦前は伊勢丹とか女子大とか谷口台小学校とかは日本陸軍の通信学校があったんです

 

ですから相模大野駅は通信学校前なんだね

 

ちなみに16号は通称戦車道路といいまして、橋本で作っていた戦車を横浜に運んだ道です

 

横浜線も東神奈川から橋本まで走ってましたね

 

僕は子供のころ相模大野にいたのですが、横浜線に蒸気機関車走ってるのを知ってます

 

伊勢丹前の行幸道路は陛下が座間の陸軍を謁見するときに出来たから行幸道路なんだぜ

 

ちなみに小田急線は昔は茶色い車両でした

 

そのあとブルーに黄色帯、そのあと白に青の帯、そのあとがいまのシルバーなんだよっ

 

ごめんごめん、脱線した

 

そんなわけで東林間の神社もわたしたちの仲間です

 

ちょっと事情があって近年行き来がなかったんだけど、秋に久しぶりに訪ねたところ、歓待してくれてうれしかったな。

 

でも、会長は、うれしさのあまり泥酔してしまい、ほとんど記憶がすみません。

 

 

(さらに脱線歴史話)

 

読者からお便りがありました

 

……………

中和田と東林間との関係について、補足を求められておりましたので、私が祖父母や先人方より聞き及んでいる話をさせて頂きます。

 

そもそも、中和田は高座郡大野村にあった一集落で、明治までの世帯数は100余りだったそうです。

 

学生時代に図書館で見た書籍には、中和田の生い立ちについて、平安時代には既に村があったと記述されてありました。

 

また、中和田の寺「泉龍寺」は今の和尚が三十四世だったと記憶しており、それに近い歴史があったとしても不思議は無いと考えております。

 

中和田を含めたこのあたり一帯の集落の多くは水に近い境川沿いに点在していたそうで、現在の市名である「相模原」が示す通り、境川西部に広がる地域には集落も無く、雑木林が広がっていたそうです。

 

そこで、新宅(分家)を出す場合には西へ西ヘと開拓したそうで、そうして中和田の農地が広がって行き、概ね「むらとみ線」辺りが座間との境界であった事から東林間は中和田の分家だということになり、古木や阿部といった中和田チックな姓が多いのです。

……………

 

お便りありがとうございます

 

これでまた物知りになりました

 

平安時代かあ

 

学校で習う歴史は時の朝廷の話で郷土史ではないので、目から鱗ですね

 

人は水から生まれ集落は水辺ときいたことがありますが、境川ぞいに中和田部落があったのが始まりなんですね~

 

ところで前々から疑問でしたが、同じ敷地に神様の違う二つの神社(長嶋・八坂)ができた歴史をご存知の方、教えてくださいね

 

んで、しつこくて済みませんが、「隠れテツ」のわたしから若干の補足

 

ここあたりの小田急の駅ですが、「東林間」が実は一番古い。

 

そのあと小田急相模原、そのあと通信学校前(相模大野)の順なんですよ。

 

小田急相模原は、昔は「相模原」といったのだけど、後から横浜線に「相模原」駅が出来たので、負けちゃって「小田急相模原」と改称したんだよ。

 

後から出来たくせに、他線で使われている名前を堂々と使っちゃうのは、やはり、当時、横浜線は「お国」だったからか

 

ちなみに、いまの小田急線町田駅は、わたしが子どもの頃は「新原町田」といいました。

 

これは、横浜線に「原町田」があったからですね。むかしは、新原町田から原町田へは、いまの東急やジョルナ(旧さいか屋)の裏口あたりをずーっと歩いたんです。

 

新原町田駅上には小田急デパートがあって、屋上遊園には観覧車もあったんですね~。えへへ。

 

 

(うちの囃子の旋律)

 

またまた脱線ですが、いま僕らが習っている囃子は神田囃子浜の手といわれています

 

神田囃子は江戸の神田

 

浜の手は、それが海沿いに伝わったから浜の手といわれ、中和田には上川井から伝わったらしい

 

でも、これは神話のような?伝説で、多分トシチャンすら上川井から伝わった時代はまだ生まれてないよ

 

もひとつ、神田囃子山の手があります

 

これは八王子?山側から伝わったらしい

 

いまだと町田の囃子がそれだと言われています

 

浜の手と山の手は旋律が全然違うね

 

浜の手習った僕らでは合わせられない

 

山の手はすごく綺麗な旋律で、お神楽にも近いように思う

 

秋の町田天満宮の祭でいちど聴いてみてください

 

で、浜の手も横浜と中和田は全然違う

 

で、地理的には町谷原と中和田は隣り合わせで、上川井経由だから両方浜の手なんだが、それでも若干違う

 

まあその地その地でアレンジされて定着するんだろうね

 

 

(鹿島神社)

 

谷口は千寿閣の前の鹿島神社が城だね

 

あと中和田の八百屋(市川ストアー)の裏手に、谷口の金山神社もあります

 

余談ですが、八百屋の裏の和菓子屋さんは中和田

 

一本橋のところの自転車屋さんの向かいにある美容院は中和田

 

少し昇って、上鶴間公民館は谷口だそうです

 

中和田と谷口の境は、16号トヨタの裏にあるセブンイレブンから上鶴間公民館を通って一本橋に抜ける道路だとばかり思っていたのですが、違うらしい。

 

まあ、でも、大体、そんな感じね。地図を書かないと説明できませーん。

 

さて、話しを戻しますと、昔、中和田には古木一策さんという笛たいこ踊りの師匠がいて、トシチャンも先日亡くなった谷口のサッちゃんも、この人に教わったみたいだね

 

そんなわけで中和田と谷口の囃子はまるで同じです

 

昔から協力関係にあるわけですね

 

鹿島の祭は睦による神輿渡御(とぎょ)がメイン。素晴らしいよ。毎年感動する!!

 

あとですね、実は谷口には「農機さんの囃子」というのがあるのね

 

農機の販売をしているから農機さんといいますが、お名前は渋谷さんといいます

 

農機さんは自前で町内の子供たちの囃子を育てているんだよね すごいと思います

 

鹿島のお祭りのときに谷口3町内で披露しています

 

ちなみに農機さんのツケは独特のバチさばきで、すごく魅力的です

 

みんなも鹿島の宵宮で農機さんのたいこ聴く機会があったら是非真似てみてね

 

 

(上矢部御嶽神社)

 

最近、踊りを教えてくれているのが上矢部の小峰さんです

 

師匠も小峰さん、一緒に来てくれるお弟子さん(はじめさん)も小峰さんですね。

 

あのあたりは、小峰さんが多いです。

 

上矢部は地理的には神田囃子山の手かと思いきや浜の手なんです

 

その来歴はよくわからないんだけど、師匠がもとは谷口の方だったらしいから、その流れなのかもしれない

 

最近は上矢部の農協祭に呼んで頂いて、祭りも楽しいのだが、なぜか当たるクジ引き!! 昨年は特等、今年は1等でしたねえ。ごりやくだろうなあ。。

 

ところで、いま僕らは、曲目として、ぶっつけ、はや①②③ができるけど、はやの前には鎌倉・四丁目(しちょうめ)という曲が先行している

 

これを教えてもらえる生き字引は師匠しかいない

 

はやもがあるといわれているが、これは師匠も知らないらしい。

 

師匠は踊りの生き字引でもある

 

谷口のさっちゃんが病に倒れ、最近、いろいろ教えてもらう時間はそんなにないかもしれないと実感しているのです

 

そんなことから、遠くて申し訳ないんだけど、師匠には、長嶋神社でまだまだ教えてもらいたいんですよね

 

このまえの例大祭で華々しくこどもの踊りが披露できたのも、師匠のおかげです

 

 

 

《櫓の話》

 

さて櫓です

 

いまの櫓は鳥居入って右側に崩しておいてあります

 

毎年八坂神社の宮刈りのときに組み上げ、秋の長嶋神社が終わると片付けます

 

柿島会長の時代、確か三~四年前かね、もう何十年使ったかわからない櫓がボロボロになったので、新調しました

 

前の櫓は、乗ると揺れる、本当に危ない状態だったんです

 

としちゃんによると、としちゃんが子どものころからあった櫓だったそうで

 

で、神社にお願いして、新調してもらいました

 

前の櫓は、ホームページのギャラリーに写ってるよ その写真に大貫さんも写ってる!!

 

新しい櫓の設計はエヌ工房の中川のんちゃん

 

製作は千葉刑務所に頼んだのね 総ヒノキです!

 

完成品は、刑務所の刑務官の方がトラックでもってきてくれた

 

お礼にその場で囃子を披露して、DVDに落として刑務所に送りました

 

後日、刑務官から、受刑者の人たちにDVDを見せて、みんな喜んでくれたとの連絡がありました

 

今週土日が櫓の調整でしたね

 

木材が膨らんだか、穴が縮んだか、ホゾが入りにくく抜けにくくなったので、削ります

 

この櫓、百年はもたせましょう。

 

ですから、今度の新調は、いまの会員は知らないね(^o^)

 

ところで、この櫓、組むも潰すも、囃子だけでは到底できません 重いんだ

 

いつも、総代さんや世話人さんが手伝ってくれている

 

でも、お祭りで櫓にあがっているのは囃子だけです

 

総代さんや世話人さん、お祭りの時は、持ち場もあってとても忙しいと思うのですが、「ちょっとあがって休んでくださいよ」って、皆で誘ってください

 

で、ビールのいっぱい差し上げてください

 

囃子をやる櫓だけど、お祭りはみんなでやるもの

 

力だけ借りて、櫓にはあげないというのはヘンだもんね

 

囃子は「やってやっている」のではないと思う

 

お祭り好きなぼくらも、神社で囃子をやらせてもらって楽しんでいるんだよね

 

神社から「今年もよろしく」といわれたら、「わかりました」じゃなくって、「こちらこそ」だよね

 

同じ意味で、お祭りの設営や撤収の際は、櫓が一段落したら、総代さんたちを手伝ってね

 

余談ですが、お祭りの設営や撤収には、こども会員も招集しています

 

子どもらは、重たいものは持てないし、櫓を動かしているときに側にいては危険です。

 

でも、お祭りの準備ができあがってから来させるのじゃなくて、「お祭りは、大人達がこうやって準備をしてできるんだよ」ってことを、子どもらにも知らせたいからなんです

 

どれだけお役にたっているか、かえってお邪魔だと悪いんだけど、境内の掃除でもいい、こどもらにも準備撤収に参加してもらいたいんです

 

しかし、最近の子どもらは、竹箒の使い方ひとつなっとらん!!! 学校で教えないのかね。。

 

 

《踊りについて》

 

先日の小峰師匠の話

 

太鼓はどんなに上手でも褒めてくれないけど、踊りは褒めてくれるんだよ

 

小さな子供の踊りは受けもいいんだよ

 

でしたね

 

つくづく納得

 

ずっと前に東林間で子供の踊りをみた記憶があるんだけど、かわいらしくて素敵でした

 

お囃子は、相州太鼓みたいに太鼓自体がパフォーマンスじゃないしね

 

そういう意味ではお囃子太鼓はBGMに似ている

 

群馬のお祭りを知っている矢野ちゃんからは、前々から踊りの提案があって、わかってはいたんだけど、どうしても太鼓中心のレッスンになってきていました

 

「お囃子=鳴り物」みたいなイメージで募集し、子供も踊りではなく鳴り物やろうと入ってくるし、ボクも含めて大人もやはり太鼓だったりするもんだから、ついつい太鼓になっちゃうんだな

 

もちろん、踊りオンリー、太鼓オンリーじゃなく、一人二役で育てていかなければいけないんだけどね

 

これからは踊りも太鼓と同じウエイトで進めて行ければと思うけどどうかな?

 

そして、ボクも含めて大人もやらないとね

 

でもさー、デブのせいか歳のせいか、この前の稽古で師匠のマネゴトして踊ったら、腰は痛い膝は痛いで、5分ともたないわたし

 

あと、踊りの入ったお囃子を実際に見てみたいな

 

うちでもやろう!と決めても、ホンモノを見た経験がないから、どうもイメージがわかない

 

それは子供も同じだろう

 

こんど、機会があったら、みんなで他の祭りの舞台を見に行かない?

 

それと、あすの稽古では、大内ちゃんに、踊っている子供をビデオ撮りして、その場でスクリーンに映して見られるようにセットしてもらうことにしました

 

お面被って踊っている子は、自分が観客からどう見えているのかわからないから、それがわかればイマジネーションも働いて動きもよくなるんじゃないかと思って(⌒⌒)

 

そういえば、最近、しんやがすごく獅子をがんばってくれているよね

 

あれ、のんちゃん専属だったんですけど、実は すごーく大変です

 

下手すると酸欠で倒れる

 

一回降ると、しばらく立てない

 

若い人にお願いなんですが~ のんちゃんも50超えましたんで、獅子3代目を募集しますので、よろしく

 

 

《お囃子メルマガ最終回》

 

いろいろ勝手なことも沢山書きましてごめんなさい

 

メルマガについても、今後についても、お気づきのことがありましたら、どんなことでも、その都度是非きかせてくださいね

 

老いも若きもみんなで仲良く末永く続けて行けることだけを願っています

 

なぜか会長にさせられまして(いまだに恨)

 

初年度スタートだからテンパっているのかもしれませんが、やってみると、いままでと違って役目が増えてしまい、気が回りきらないのが本音(泣)

 

すでにノイローゼうつ病

 

そんなわけで、これまでいぢってきた子供も厨房もそのほかも、お任せすることが増えると思いますが、どうぞ助けてやって下さい

 

ご愛読?ありがとうございました

 

おわり

 

 

↓↓読者からの盛り上げメールです(^w^)

 

囃子を始めた頃は囃子も盆踊りも楽しく3点、4点だけでやっていました。

 

他の盆踊りを見に行って少しはテクニックを入れ始めた頃、谷口のおじいちゃんたちと町田の神社に連れて行かれました。

 

町田の盆踊り、神社の広さは長嶋神社の境内と同じくらい、舞台の大きさは中和田か谷口と同じくらいでしょうか。

 

おじいちゃんたちに「適当にやってればいいよ!」と言われ、最初は遠慮しながら太鼓を打っていました。

 

踊り手のお姉さん(? (^^;)たちも遠慮して譲り合い、踊りの輪は一周の半分にもならず。楽しく盛り上がるのが好きな私としては不満でした。

 

3曲ほど終わっても、まだもじもじして踊りは増えず。

 

そしてフラストレーションが限界に!。

 

思いっきり楽しみたい私は、最初は「すり鐘」で威勢と音量を上げて、かけ声も「よいしょ!」「そら!」と入れだしました。

 

次に太鼓が回ってきたとき、リズムに合わせて思いっきり「どどんがどん!」と。

 

もちろんかけ声も。

 

おじいちゃんたちも乗り始めました。

 

すると徐々に踊りの輪が賑やかに。一周り目、、、、二周り目。。。

 

楽しそうな雰囲気に誘われた若者、境内のそとからが集まり増えてきました。

 

この間もおじいちゃんたちと一緒太鼓、すり鐘、拍子木。かけ声で盛り上げます。

 

終わる頃には三周り目が一杯でその外で踊る人もに。

 

終わりのコールと共にアンコール、アンコール、アンコール。

 

アンコール4曲目のコールに主催者側がギブアップしました。時間オーバーでした。

 

そして我々へのお礼の言葉がスピーカーから流れ、大きな拍手をもらいました。

 

この時、すごい満足感と共に、太鼓や鐘が盆踊りを盛り上げる大きな役割を担っているのだと感じたのです。

 

その後の盆踊りで高橋さんから格好が大切と教わり、「さらしを巻き、パッチをはき、ハッピに帯にハチマキをして」参加するようになりました。

 

お囃子もそうですが、盆踊りの太鼓や鳴り物、格好を含むその雰囲気は踊り手のお姉さん(?)達を盛り上げる裏方さんだと私は思っています。

 

ま~、舞台の上にいるのでもしかしたら主役と考える人もいるかもしれませんけど、華にはほど遠い。(^^;;やっはり踊り手さんが華で、鳴り物は裏方です。

 

今では、浴衣を着て行ったり、工夫しながらそして自由に、雰囲気を盛り上けようと思っています。

 

お囃子も、盆踊りもイキにかっこよく行きたいと思っています。

 

私の盆踊りへの思い入れでした。失礼しました。

 

 

《終わらないメルマガ》

 

 

(八坂神社を終わって)

 

八坂例大祭も盛況に無事終わりました

 

みなさんの協力のおかげで立派な舞台に仕上がりました

 

子供達もほんとうによく演じてくれて、わたしは櫓で観ていたのですが恥ずかしながら目頭が熱くなりました

 

心からありがとうございました

 

子ども達、上手になったよねえ。子どもって、無限の可能性をもってるんじゃないかな。

 

 

すぐやるSIの社長によると、DVDが近々できるとのことですので、お配りしますね

 

つぎの舞台は盆踊りとなります

 

子供の出番はありませんが当日は子供さんも是非遊びに来てください

 

暑くて参りますがよろしくお願いします

 

 

(トリビア祭の語源)

 

[まつり]は従来「〈待つ〉から出たことばだ」と言われていました。

 

最近の研究では〈従う〉ことを言う古語〈奉(まつ)る〉が語源だと言われます。

 

「神様を心の底からお慕(した)いして従うこと」が〈祭〉の元からの意味だと言うのです。

 

そこで、お祭とは「神前に山海の珍味や御酒を捧げ丁重におもてなしすること」の意となります。

 

直会(なおらい)にはそれを神様と一緒に戴(いただ)くという意味があります。 

 

西宮一民『祭祀と言語』(おうふう)